この度、napgalleryでは10月3日(土)から11月7日(土)まで 白井美穂、 鶴見幸代の二人展「game theory」を開催いたします。”game”というキーワード をもとに展覧会を開催することとなりました。現代美術というフィールドの中 でジェネレーションの違うふたりの女性作家の作品に潜むゲーム性を導き、読 み解く楽しみをご享受頂ければ幸いです。是非ご高覧くださいませ。
もうひとりのロビンソン・クルーソーを探して
絵画にしろ、写真にしろ、彫刻にしろ、コンセプチュアルな作品は見るものをゲームに誘い込む。だが、見るものすべてがプレイヤーとなるわけではない。 プレイヤーとなりうるのはルールを知っているものだけだからだ。よって作品 鑑賞ゲームのプレイヤーは無限に増殖する可能性をもっているが、実際のプレイヤーは数えるほどしかいない。
ゲーム理論におけるロビンソン・クルーソーとはただ一人の孤立した人間が営む経済モデルを意味するが、現実にはありえない孤立した人間というモデルはとりわけアートにだけはあてはまる。芸術的価値という一定量の財をもつと仮定される美術作品は、数多くの欲望(変数)と社会的交換経済の中で実際には変動するにもかかわらず、今日もなお、アーティストはクルーソーという孤 立したモデルのごとく振る舞う希少なプレイヤーであり続けているからだ。そして多くの場合、アーティストはアートという戦略ゲームのルールを知らない孤立した存在として社会には映っている。なぜなら彼女/彼の利得はゼロだからだ。
多くのアーティストはアートというゲームをゼロ和ゲームと思っている。たしかにコンセプチュアルな作品読解において、アーティストと鑑賞者はゼロ和2人ゲームのプレイヤーのようだ。しかし社会においてのアートは非ゼロ和ゲームすなわち一般ゲームであり、そのプレイヤー(社会経済の参加者)の行動に依存して社会的総生産は変動している。
作品の価値が読み解かれるゲームすなわちコンセプチュアルな作品読解ゲームとアーティストのサバイバル・ゲームは、無人島の方向からは別にみえるが、社会的パースペクティブにおいては同じひとつのゲームにみえる。よってフォン・ノイマンとモルゲンシュテルンの次の箴言はそのままアーティストにあてはまるだろう。
「ゲームの規則とプレイヤーの戦略とを混同してはならない」。
さらに付言するならば、アートというゲームは複数のルールがレイヤー化されている。この構造を見誤ると、アーティストというプレイヤーは永遠のルーザーとなる。社会から無人島へと連なるこの構造を見やるもうひとりのクルーソー、いやより重要なプレイヤーたちもまたルールを知ったものの前にのみ現れるようだ。
山本 和弘 (美術評論家連盟aica副常任委員長)
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